現代語訳
御座村旧記
 

  (訳者解説)上記の作品は、柴原精市氏所蔵の写しを写したものである。
 『御座嶋由来記』同様、この旧記も歴史書というより、昔から御座で言い伝えられたものを記録しただけであり、歴史的意味合いはほとんどない。御座の口承が記されているだけである。
 尚、原文は漢文体であるが、現代語訳し、その際、数カ所補足説明を加え、又、元々あったルビはカタカナで、読みにくい漢字にはひらがなで()内に読み方を示した。


 御座村は 浜島村の東南方向25町
(2700m)先にあり、舟を行(すす)めると到り着く。童子託神詠をもって言うには、伊豆の海荒磯之社の宮司がこの国に来て、神の御座嶋(ヲワシマス)を永く知りたいと欲している、と。
 古伝が言うには、人間天皇15代の神功皇后が新羅、百済、高麗を伐って、伊勢大神宮へ御参詣のため、筑紫よりこの豊葦間湊へ御船幸があり、それで白良濱に御座所を定める、と。これよりこの浦を神降
(シラ)浦と名づけ、この嶋を御座嶋と號(な)づける。この時、船中では食料が乏しく、風波が甚しく、渡海の便を失ってしまう。そこで矢文でもって言を告げる。清濱の士高圓が白米を献げられ、よって改めて飯米嶋(ハマジマ)と名づける。その矢を祭り、大矢社と號づく。 又、大矢高圓が言うには、弓を射るところを御用ノ嶋と名づけ 矢の止まるところを矢取嶋と名づける、と。
 八皇子社。又、山王権現、白髭明神、弁財天、浅間社山祗神恵比須がある。
 潮音寺。梵海山と号する。金剛證寺の末寺である。天明年中に村より弘法大師の草履を納める。
 見崎山。蒭蕘
(すうじょう=草刈りと木樵のこと)が出る。彼らをひきいて人間天皇14代仲哀天皇の后である15代神功皇后が三韓を平定して、九M(州)ヘ帰朝の時、応神天皇が御誕生になる。津之国迄、御船に乗られ、沖ヘ出帆の時に、大風が甚しくなり、灘ヘ吹き流され、御難義に及ぶ。それで竜宮へ祚誓すると、たちまち鰐の背上に乗る。風波が穏やかになり、八大竜王の使いである八尋の鰐は次第に磯に近づき、ここの見崎から少しのところにある江之浦に入る。その鰐は水上にあらわれた岩と成る。今の御船嶋がそれである。漁師はこの嶋に中(あたる)ことをを禁じている。この見崎山は長さが5町(540m)ある。この山には悪鬼が住んでおり、二頭六足の鹿に騎(またが)り海上を走っている。地元の人は煩うこと限りがない。そこで神功皇后は武内宿禰に令(いいつける)。宿禰は弓でもって山中を射ると、たちまちあの鹿の騎るところを射る。血は流れ、その鹿は東の村を越え、血引浦を過ぎて死ぬ。主従は鹿を得てN(かえ)る。その追うところを越鹿村と名づける。現在、見崎の場所で祭っている美差幾大明神は神功皇后と仲哀天皇の二神である。その山を衣手山と名づけている。
 その後、人間天皇52代嵯峨天皇の御代に弘法大師がこの衣手山に上り 七日間の護摩修行をし、山の墳墓に護摩札を加持、土砂一石に一字の文すべてを納める。悪魔降伏のためにするのである。又神上谷に不動明王を刻み、護摩執行をする。爪切不動が言うには、今の滝不動がそれであり、寛政七年乙卯
(1795年)の冬に建堂され、大師以来の衣手山が聖岳に移ったのである、と。
 その後、大江千里がしばらく居たので、千里屋布、千里井が、今尚、存在している。

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